120rpm

ミル、キク、モノ、コト

六代目 三遊亭圓生

ん生も文楽も記憶にない。
昭和の名人と呼ばれる落語家の中で、自分の記憶にあるのは、六代目三遊亭圓生だ。

子供の頃は、日曜の午後、テレビで寄席番組が結構あった。
日曜も午後になると翌日の学校のことが気になり始めて、子どもながらにブルーな気分になって来る。
そんなテンションが下がっている中で、ぼんやり見ていたのが、圓生だった。

わざとらしく笑いを取る事はせず、時にゾッとさせたりホロリとさせたり。
落語に人情噺や怪談噺があるとは知らなかったから、その意外性が妙に記憶に残っている。

出囃子は正札附。

数多くある出囃子の中でも整っていて美しい。まさに圓生

史上最多の演目を持つ圓生は、録音も映像も多く残っていてありがたい。

実況録音が良いかスタジオ録音が良いかは、意見が分かれる。
例えば、志ん生は、客との距離感や間、志ん生独特のフラから起きる観客の笑い声など、実況録音ならではの臨場感が痺れるほど楽しい。
圓生の実況録音は、彼の美学というか潔癖さというかどこか芸術至上主義的な厳しさや凄みが薄れてしまって、面白みが削がれる。

圓生百席

圓生百席』は、圓生の100以上もの演目をすべてLPレコード化するという企画(ソニーレコード、プロデューサー京須偕充、ジャケット撮影篠山紀信)。 『圓生百席』(当初『三遊亭圓生人情噺集成』として刊行されたものを含む)は延べ収録時間110時間をに超え、のちにCD化されたものではCD126枚(他にセットには特典盤2枚付)に及ぶという、日本の演芸界でも他に類を見ない大作。すべて観客のいないスタジオで録音されており、異例な事だが演者自身が編集作業に立ち会って言い間違いや間の狂いなどを徹底して排除し、修復不能な場合は最初から収録し直す方法で製作された。「あがり」と「うけ」のお囃子も演目ごとにすべて変えてあり、6代目三遊亭圓生自身が選曲している。 今でこそ珍しくないことだが、前例の乏しい当時、音源記録へ自身の落語を残そうと取り組んだ功績は大きい。wikipedia

これにとどめだと思う。スタジオ録音のため、圓生も納得の録音なのではないだろうか。CD化に際していくつか問題のある表現がカットされている・・・時代だと思うしかないか。 

圓生の録音室 (ちくま文庫)

圓生の録音室 (ちくま文庫)

 

圓生百席』の録音風景は、このエッセイに詳しい。当時の空気すら感じられる臨場感のある文章は必読だ。

演目の多さ、録音・録画への先見性から、圓生クラシック音楽界のカラヤンに似ている。
現在の落語家、落語ファンに残した宝。本当に完成してよかったと思う。学ぶ素材を多く残したという点で、現在でも影響力の強い落語家なのだと思う。

この『圓生百席』の中で、個人的に好きな演目は、

紺屋高尾
圓生の面白いところは、意外とがっちりと演じ切るというよりは、途中途中で時事ネタが入るところだ。「10両持ってるなんて、お前か田中角栄くらいだ」的な表現にあれ?と思う。録音されて長く残されるものなのに、普遍性に重きを置くでもなく飄々と言ってのけて、それでOKなのだから。

中村仲蔵
今は八代目林家正蔵の仲蔵が絶品だと思うが、圓生の仲蔵がこの演目を知った最初だった。こういう出世噺もあるのかという発見と歌舞伎とのつながりを教えてもらった素敵な演目だ。

佐々木政談
鼻っ垂らしの子どもが目の前にいる。その表現力に圧倒される。小憎らしくも愛らしい子どもに会いたくなったら、この演目を聴く。

鼠穴
談志がどこか照れながら演じているのに比べ、情景の描写力、表現の割愛の仕方など好みは圓生版だ。もしも、この話を知らない方がいたなら、羨ましい限りだ。ぜひ、何の予備知識も入れずに聴いて欲しい。人生でまだ鼠穴を初めて聴く楽しみが残されている人に嫉妬しつつ思う。

唐茄子屋
志ん生は面白おかしくも悲哀を込めて愛らしい徳三郎を演じ、遠く吉原の灯りを眺めて終わる。圓生はその上段だけでなく、しっかり下段まで演じている。
ここでも子どもの表現に心を打たれ涙する。傑作。

言い出したら、全演目書きたくなってしまうので、今日はこのあたりで。。。