120rpm

ミル、キク、モノ、コト

八代目 桂文楽

ログを公開で書いている以上、読み手を意識している。
落語の記事は、知っている人は分かるけれども一見さんお断り的な内容になりがち。今回もお許しを。

全盛期の桂文楽を知りたい、聴きたいと思っても叶わぬ夢だ。

1954年:ポリープ除去のため、それ以前より声の艶が劣ったと言われた。
1961年:入れ歯のため、口跡が悪くなる。 

1954年以前の録音はSP用録音しか残されていないのでは?
録音の質を考えると、“声の艶”云々と言えるレベルではないと思う。
そうなると、1961年以前を対象に“これぞ文楽という録音は?”ということになるが、こちらも非常に少ない。

1954年のポリープ除去以降しばらくは本人も声質の変化に戸惑いと苛立ちがあったようで、入れ歯前であっても“これぞ文楽の真骨頂”という録音はないのかもしれない。

出囃子は野崎。

明烏

息子が道楽者だと親は心配するが、あまりに堅物すぎても困りもの。日向屋の若旦那・時次郎は、部屋にこもって難解な本ばかり読んでいるような頭の固い若者。そのあまりの堅物ぶりに閉口した父親は、「遊びも知らぬ世間知らずでは困る」と、町内でも「札付きの遊び人」の源兵衛と多助に、時次郎を吉原に連れて行くよう頼み込む。 費用は日向屋持ちというので二人は面白がって大張り切り。時次郎を「お稲荷様のお篭り」と称して誘い出した。 まんまと騙された時次郎、信心事ならば詣りましょう、と何の疑いも持たず、連れて行かれたのは吉原の大店。そこでも遊廓を「神主の家」、女主人を「お巫女頭」、見返り柳はご神木で、大門が鳥居、お茶屋を巫女の家だと言われ、堅物の時次郎は素直に奥へ上がってしまう。 二階で遊女たちに囲まれ、店一番の美しい花魁を前にして、やっと真相に気づいた時次郎。慌てて逃げ出そうとするが「大門には見張りがいて、勝手に出ようとすると袋叩きにされますよ」と多助に脅され、どうしようもなくなって泣く泣く花魁と一夜を共にする羽目に……変な客もいたものである。 翌朝、源兵衛と多助はどちらも相方の女に振られて詰まらぬ朝を迎え、ぶつくさいいながら時次郎を迎えに行く。 戸口に立った二人が出くわしたのは、「男女の理」というものを一夜とっくりと思い知らされ、花魁の魅力にすっかり骨抜きにされた時次郎。一方の花魁も、時次郎のあまりにうぶなところが気に入ってしまい、初見から惚れ込んで離さないという始末。遊び人たち、あまりの事態に閉口する。 時次郎が(花魁に離して貰えず)布団から出てこないので、クサって「帰りましょうや」と言う源兵衛と多助に、「勝手に帰りなさいな、大門で止められる」wikipediaを編集

昭和の名人~古典落語名演集 八代目桂文楽 三

昭和の名人~古典落語名演集 八代目桂文楽 三

 

録音記録:東宝名人会 1964.01.31 東宝演芸場) 

NHK落語名人選 八代目 桂文楽 明烏・心眼

NHK落語名人選 八代目 桂文楽 明烏・心眼

 

録音記録:東京落語会(42) 1962.12.14 ヤマハホール

桂文楽の十八番。
判で押したように同じリズム、同じ口調。つっかえたり言い間違えたりがほとんどない。磨きぬかれたものを高座に掛けていたのだろうから、聴く側も、僅かな“艶”や“口跡”の違いに敏感だったのかもしれない。

“弁慶と小町は馬鹿だなぁ嬶(かか)ぁ”
“土足でやってくださいよ、遠慮しちゃ、美味くない”
“いざってえ時に商いの切っ先が鈍っていけませんよ”
“おいおい、君、引き出しを違えちゃいけねえ”
“図々し学校卒業生”
“堅餅の焼き冷ましみたいな人間”

文楽は、アドリブは少ないと思うが、卓越した言葉選びと造語の面白さは志ん生に負けない。狙いすましてサクッと切り捨てる凄み。

堅物の若旦那・時次郎、花魁の浦里。
時次郎(豆の佃煮)、浦里(コブの佃煮)も大阪にある佃煮屋の品名だったというが、今もあるのだろうか?
たぶん、小倉屋なんでしょうね。小倉屋 - Wikipedia

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落語研究会 八代目 桂文楽 全集 8枚組DVD

落語研究会 八代目 桂文楽 全集 8枚組DVD

 

志ん生と違い、映像もしっかりと残っているのはうれしい限り。
このDVD集には「明烏」が3本収録されている。

1962年:TBSに残された最古の落語映像。
1968年:「第五次落語研究会」最初の文楽の姿が見れる。この歳で“研究会”に参加できるなんてとノリノリで、珍しく小噺を頭に入れている(何だか妙な空気が流れて・・・大して面白くはないw)
1971年:カラーで残された「明烏」。亡くなる年の収録。

最晩年のカラー映像では、あの完璧なはずの文楽が言い淀んだり、噛んだりするのだ。
こちらの勝手な憶測にすぎないが、後世に残ることを意識しながら、その衰えの中に見せる凄みと悲しみを感じてしまう口演に涙が出てくる。

泣きの文楽にこちらが本気で泣けてしまうのだ。