120rpm

ミル、キク、モノ、コト

『エクソシスト』を語る(前半)

れた映画は常に同じだ。
あり得ない状況や世界観を受け入れ、実力に裏打ちされた真摯な姿勢で応える。
映画なんて常にまやかしなのだが、それを大真面目に演じ切る姿勢が良し悪しを左右する。『エクソシスト』がまさにそうだ。なめた芝居は一瞬もない。

エクソシストとは悪魔祓い師のことで、悪魔に取り憑かれた人間を指す言葉ではない。
エクソシスト=“キャー、こわーい”ではないのだ。そこんとこ、よろしく。

実は当初よりかなり削られた状態で公開されている(それをある程度復活させ、原作者の意志を反映させたものがディレクターズ・カット版で、饒舌すぎてつまらない作品だった)。注意深く観ると、繋がりがおかしな部分がある。セリフ回しだったり、映像そのものが分かりにくかったり。曲解されることを恐れず、観客の感受性や読解力に委ねる。そんな時代の映画だ。

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ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット《光の帝国》(1954)

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エクソシスト(1973)

イラク北部で遺跡を発掘調査していたランカスター・メリン神父は、悪霊パズズの像を発見する。彼は「この邪悪な宿敵と再び対峙する日が近い」と予感する。 女優のクリス・マクニールは映画撮影のためにワシントン近郊のジョージタウンに家を借り、一人娘のリーガンと共に滞在していた。 ジョージタウンに住むデミアン・カラス神父は時々、ニューヨークに住む母親を見舞いに訪ねている。母親はギリシャからの移民で、ラジオでギリシャの音楽を聴いている。 クリスはやがてリーガンの異変に気付く。その声は邪悪な響きを帯びて形相も怪異なものに豹変したうえ、荒々しい言動は日を追って激しくなり、ついには医者からも見放される。その矢先、友人の映画監督のバーク・デニングズが殺害される事件が発生する。死体が発見されたのはクリス宅の近くの階段であった。キンダーマン警部補が捜査に乗り出す。そして、悪魔はリーガンに十字架で自慰行為をさせ、バークの声を使ってクリスを嘲笑する。 娘が悪霊に取り憑かれたと知ったクリスは、カラス神父に悪魔払いを依頼する。当初悪魔憑きに否定的なカラスであったが、調査を進めていくうちにリーガン自身からの助けを求めるメッセージを発見する。カラスは悪魔払いの儀式を決意し、大司教に許可を求める。主任には、悪魔払いの経験があるメリンが選ばれた。メリンとカラスの両神父は、少女リーガンから悪霊を追い払う儀式を行うが、その途中でメリンは持病の心臓病が悪化して息を引き取る。カラス神父は格闘の末、悪霊をわが身に乗り移らせると窓から身を投げ、階段を転げ落ちて絶命する。横たわるカラスのもとへ友人のジョセフ・ダイアー神父が駆け寄る。wikipedia

この映画の素晴らしさは、いくつもの解釈が可能であるところ。

キンダーマン警部補の視点で、犯罪捜査ミステリー的な見方もできる。
キンダーマン警部補・・・実に粘着な、それでいてどこか憎めないこの感じ・・・刑事コロンボに似ている。キンダーマンは、原作者ウィリアム・ピーター・ブラッディが一番愛したキャラクターで、後に『エクソシスト3』の主人公になる。

ゲテモノ映画として楽しむなら、首が回る、宙に浮く、ポルターガイスト現象、十字架で自慰行為をするなど、今では古典的と言っても良いお手本のようなショッキングな映像をどうぞ。

子どもの頃は、そんなところに惹かれたし、“悪魔学入門”的な本も読み漁った。

ところが、『エクソシスト』は何だか肩透かしなのだ。
サタンとかルシファーとか、ベルゼブブなんかは出てこないのだ。キリスト教的世界観の外から物語はスタートする。イラクの遺跡の発掘現場。そこでメリン神父が見つけるのは、パズズ。因縁の相手だ(『エクソシスト ビギニング』参照)。 

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ルーブル美術館所蔵

パズズ (Pazuzu) は、アッカドに伝わる風と熱風の悪霊であり、魔神の名である。wikipedia

紀元前1千年紀メソポタミアイラク)では、こんな青銅像が作られていたというのだから、魔物の中でも相当のベテランだ。

そんなやつが相手だというところからもキリスト教的な秩序に守られている世界から乖離した混沌として寒々とした不気味さがある。下手をするとキリスト教誕生よりも1,000年も前からいる相手だ。大丈夫か?

オーソドックスな見方は、カラス神父の視点だろう。

俺が俺がと我を通すことに躍起になって、それが通用しないとなると烈火のごとく怒るばかり。そんなクソみたいな奴らばかりが周りにいるから、身を賭して他人を助ける姿に公開当時以上に感動してしまい、年に数回ブームが訪れ、繰り返し観てしまう。

そもそも、神父が少女を助ける理由が分かりづらい。ただの人助けじゃない。自分の命を捧げて少女を助けるとはどういうことだ?

悪魔に取り憑かれる少女リーガンよりも、丹念にカラス神父を描いている。

地下鉄の浮浪者に不快感を持つだけで手を差し伸べなかったカラス神父。

同僚の神父の悩みを親身になって聞く姿。ミサで神の言葉を信者に伝える姿。模範的な聖職者としての姿がある半面、年老いて足の悪い母親を一人暮らしのままにし、果ては精神病院に入れ、息子に裏切られたとなじる母親をどうすることもできなかった。母親の死は、カラス神父に大きな悔恨となって残る。

手を差し出せなかった自分。母を助けなかった自分。悔み続け、そこは信仰の揺らぎすら生まれてしまう。

酒は飲むし、タバコも吸う。本物はどうなのかは知らないが、聖職者としては落第レベルなんじゃないか?

悪魔に取り憑かれる少女リーガンは、父親が寄り付かず離婚寸前(あるいは既に別れているのか)の母子家庭、女優の母親と共に住まいも転々としているからか、友だちは粘土で作った奇妙な生き物たちとハウディ船長(日本でいうコックリさんのお狐様だ)

家を切り盛りするお手伝いの夫婦は元ナチス党員のようだ。母親は、敬虔なクリスチャンという風でもない。

この話で怖いのは、敬虔なクリスチャンだから悪魔が取り憑いて神の無力さを知らしめてやるというような因果関係が示されないところだ。

悪魔もキリスト教とは関係ない。神に祈りを捧げることも稀なごく普通の家庭がその対象になってしまうランダムさ。偶然性の恐怖だ。

フリードキン監督はドキュメンタリータッチが得意で、この映画でもかなり長回しを多用している。カット割りの多い最近の映画に慣れていると、鈍重に感じるかもしれないが、そこの生々しさもこの映画の魅力だ。誰でもその被害者になり得るという当事者感がグイグイ伝わってくる。

先に書いた首が回ったり云々の怪奇現象も、宗教心の薄いリーガンの母親が、カラス神父にすがるしかないと追い込まれるプロセスの必然として描かれている。何かあったらすぐに神に祈りを捧げる母親だったら、首を回さなくて良いのかもしれない。

神にすがるしかもう手がないという切羽詰まった感じが、リーガンの母親にも、信仰を失いかけたカラス神父にも作用している。

取り憑かれた者ばかりかそれを取り巻く人間たちまでも(神父も含む)、無価値で神のご加護にまったく値しない役立たずなんだと思わせる悪魔の攻撃(口撃)の巧みさが怖い。

悪魔祓いの最後に、カラス神父は身を賭して少女から悪魔を引きはがし、自分の体に憑依させおのれの命を断つことで、少女を悪夢から解放する。

自殺。

それはキリスト教的にもアウトだと思う。
冷静に見れば、悪魔祓いの儀式もグダグダで上手くいっているとは言えないし、その対象(少女)をボコボコに殴った挙句、飛び降り自殺・・・失敗だ。

階段を転げ落ち瀕死のカラス神父に、親友のダイアー神父が駆けつけ、彼に問う。

“懺悔をするか”
“悔い、わびるか”
“神の怒りを招いた事、過去のすべての罪悪を悔いるか”

カラスの指がそれに答え、かすかに動く。

何度観ても、このシーンは涙なしには観られない名場面だ。

エクソシスト ビギニング』がメリン神父の信仰を取り戻す物語だとするなら、『エクソシスト』はカラス神父の信仰の物語だ。

無様だが身を賭して人を助けた男の生きざまを観る映画。
この男の生きざまの前では、悪魔祓いの儀式など単なる添えものだとすら思えるのだ。

もう3000文字を等に超えている。終わらなかったか・・・後半へ続く。